創業者の思い

 仙味エキス株式会社の生みの親・筬島一治(おさじまかずはる)は、24歳で社会に出てから48歳で同社の前身となる会社を創業するまで、10回以上も転職を繰り返している。四半世紀近く“不完全燃焼”の日々を過ごす中でも、頑なに信じ、貫き通した“想い”がある。創業を決断させ、その後、食品業界に天然素材を浸透させる契機となったその“想い”は、現在も仙味エキス株式会社の根底に脈々と流れている。

学生時代は超エリートも、会社員時代は問題児!?

一治が誕生してから創業するまでの半生を、略年譜で振り返ろう。

西暦-和暦(年齢) 出来事
1927年-昭和2(0歳) 9月に山口県下関市で父・善太郎、母・勝子の四男として誕生。
1940年-昭和15(13歳) 福岡県立門司中学校に入学。
1943年-昭和18(16歳) 海軍兵学校(江田島)に入学。
1945年-昭和20(18歳) 旧制五高(熊本市)に入学し、上級生の妹で後に妻となる首藤知子と出会う。
1948年-昭和23(21歳) 九州大学農学部(福岡市)に入学し、富山哲夫教授の「魚体液化」研究に啓発される。
1951年-昭和26(24歳) 4月に製紙会社に入社し、5月に首藤知子と結婚。
1953年-昭和28(26歳) 長男・克裕が誕生。
1954年-昭和29(27歳) 製紙会社を突如退職。その後22年間で12の会社を渡り歩く。
1958年-昭和33(31歳) 長女・由起が誕生。
1976年-昭和51(49歳) 仙味エキス㈱の前身となる㈲四国エキス産業を創業。
※年齢は誕生日時点

 少年時代、青年時代の一治は稀に見る秀才で、当時、最難関と言われた海軍兵学校に進学し、旧制五高を経て、九州大学農学部に入学。そこで水産化学の研究者・富山哲夫教授と出会う。終戦直後、近海で豊富に獲れるアジやイワシを液化し、栄養失調の高齢者や子供などに与えることを考えた富山教授は、「魚体液化」を研究していた。その発想の根底に「国民を飢餓から救う」という目的があることを知った一治は、感動に打ち震えたという。大学卒業後、製紙会社に技術者として就職した一治は、パルプ製造の特許取得に携わるなど才能を発揮。しかし入社4年目に突如退職し、以来、いくつもの会社を渡り歩くことになる。

海軍兵学校入学当時 九州大学農学部時代。
学生服の上に白衣を着ているが農学部らしい

自宅でのライフワークは「魚体液化」の商品化

 約25年間のサラリーマン時代、一治が自宅でずっと続けていたことがある。「魚体液化」の商品化に向けた研究である。「魚体液化」とは「魚体の腐敗を防ぎながら、魚体が持っている自己消化酵素によって魚肉タンパク質をアミノ酸に分解、液化させること」である。タンパク質を栄養素として体内に吸収するには、より分子構造が小さいペプチドやアミノ酸にまで分解する必要があるが、微生物の酵素によって分解すると、アミノ酸はさらにアンモニアなどに分解されてしまい悪臭を放つ。これが腐敗である。富山教授は「魚体液化」を理論上、成功させていたが、商品化には至っていなかった。
 実は一治は製紙会社退職直後の1954(昭和29)年6月、長崎でアクリル樹脂の工芸品の会社を創業している。その場所はイワシやアジ、サバ漁が盛んで、貝の種類も豊富。一治は海岸で採取した魚貝をアクリル樹脂の中に密封し、アクセサリーなどにして販売したが全く売れず、1年ほどで廃業してしまう。しかしすでにこのとき「魚体液化に依る調味料製造に関する趣意資料」を作成しており、工芸品の販売で会社を軌道に乗せた後、魚体液化調味料で勝負することを決めていたのだ。このもくろみは頓挫したが、長崎を離れサラリーマンに戻ってからも、一治は自宅で「魚体液化」の研究を続けた。

就職後、すぐに首藤知子と結婚

天然エキス調味料を商品化し、八幡浜で調味料メーカーを創業

 1965(昭和40)年、一治は福山市のゴムメーカーに勤めながら、自宅で熱帯魚のエサづくりを始めた。一治が発明したのは豊富な栄養価を有する安価な練りエサで、食べ残したエサが水底に長期間残存しても腐敗せず、水が濁らなかった。一治が特許を取得した「魚餌製造法」の出願書類には「魚介」「自己消化酵素」「タンパク質」「アミノ酸」などの単語が並び、「魚体液化」の商品化に近づいていたことが想像できる。
 その後、自宅の物置小屋を改造して研究室にすると、職場を移りながらも「食用調味料の製造法」「水産練製品等の変質防止保存法」「粉末状冷菓の製造法」の特許を次々取得し、「魚体液化」の商品化に向けて歩みを進めていく。そして1975(昭和50)年ごろ、魚体からペプチドを主成分とするエキスを効率的に抽出する“魚肉ペプチドの工業化”に世界で初めて成功し、ついに天然エキス調味料が商品として誕生した。
 一治が開発した天然エキス調味料が食品業界関係者の目に留まり、共同経営に熱心に誘う人物が現れた。彼らは愛媛県八幡浜市での起業を勧めた。八幡浜には蒲鉾やじゃこ天を製造する水産練製品メーカーが数多くあり、天然エキス調味料を売り込むには最適だった。また魚市場では練り製品の原料となるエソやグチなどの小魚が大量に水揚げされていたが、需要が落ち込む時期は行き場を失っていた。この小魚を天然エキス調味料の原料にすれば製造コストが抑えられる。一治にとって八幡浜で起業するメリットは大きかった。
 1976(昭和51)年4月、48歳になっていた一治は3人の共同出資で八幡浜市に「有限会社四国エキス産業」を設立。満を持して天然エキス調味料「タイミ」の製造・販売を開始した。「タイミ」はエソやグチなどの白身小魚を原料に、独自の自己消化分解法により製造したペプチドを主成分とする調味料で、蒲鉾などの水産練製品に使うと、本物の自然な魚の味が出せる上に、保水性の向上などの品質改善効果が期待できた。

会社設立当時の会長

「馬の小便」と揶揄されるも、天然の良さが理解され注文殺到!

 昭和50年代前半、大半の蒲鉾はスケソウダラの冷凍すり身を原料に、化学調味料で味付けされていたため、どのメーカーの商品も似たような味になっていた。しかし「タイミ」を使えば、従来のエソやグチを原料にした高級蒲鉾と同じような本物の魚の味が出せる。商品に絶対の自信を持つ一治は、自ら先頭に立って蒲鉾メーカーを回った。しかし結果は散々。門前払いは当たり前で、たまに責任者に会えたとしても「化学調味料で間に合っている」の決まり文句が飛んでくる。褐色で粘り気のある液状の「タイミ」を見て、「こんな馬の小便みたいなもの持ってくるな!」と言い放つ者さえいた。
 それでも一治はめげなかった。「人間が自然の産物である限り、化学調味料が身体に良いはずがない。いつか必ず天然調味料の時代が来る!」と確信していたのだ。この一途な想いが販路を徐々に切り拓いていく。
 全国各地の蒲鉾メーカーを一軒一軒口説いて回ると、10軒に1軒の割合で「試しに使ってみるか」という話になり、「工場で試作して欲しい」というメーカーも現れた。その中の一つは、現在も「タイミ」を使い続けてくれている大手メーカーで、原材料に「タイミ」を加えた手づくりの蒲鉾を工場で試作し、何も付けずに食べてもらったところ、「美味い!」「まるで高級蒲鉾のような食感だ」「スケソウダラなのに、エソやグチの風味がする」など、称賛の声が次々と上がった。やがて「よし!うちは化学調味料を止めて、この天然調味料を使おう」と当時の社長が即決した。
 このような蒲鉾メーカーが相次いだことで販路はどんどん広がり、食品業界に「タイミ」が浸透していくと、全国各地から注文や問い合わせが殺到。当時、四国エキス産業は「タイミ」の製造を外部に委託していたが、外注では注文に応じきれなくなった。そこで一治は工場建設を決断。リアス式海岸が続く八幡浜には大きな土地がないため、地価が手ごろで水がきれいな隣町・大洲の丘陵地に白羽の矢を立てた。この場所は八幡浜市と大洲市の境界付近に位置し、両市から従業員を集められるメリットもあった。創業翌年の1977(昭和52)年7月、2階建ての新工場が完成した。

その姿から当時は「社長」ではなく「先生」と呼ばれていた

53歳で一国一城の主となり、事業拡大に邁進

 新工場操業時の従業員はパート社員も含め男性5人、女性4人の計9人。「タイミ」の製造方法は一治が手取り足取り教えた。業績は順調に推移し、1979(昭和54)年には売上高が1億円を超える。1981(昭和56)年2月、有限会社から株式会社に組織変更し、一治が代表取締役社長に就任。53歳で名実ともに一国一城の主となった。同年4月、社名を「仙味エキス株式会社」に変更。そこには「四国という社名では発展が四国に限定されかねない。また会社として天然原料を活かした“仙人の味”“仙境の味”を追求していくことで、“不老長寿”すなわち究極の健康づくりを目指さなければならない」という一治の想いが込められている。
 翌1982(昭和57)年、子会社として「仙味エキス販売株式会社」を設立し、販路の拡大を図る。食品メーカー出身の経験豊富な人材を採用し、営業力を強化したことで総合商社や大手食品商社との取引が始まった。
 本社事務所が新築落成した1984(昭和59)年6月、長男の克裕が入社し、工場長に就任。大学でバイオテクノロジーを学び、大手食品メーカーの技術者として乳酸菌の研究や品質管理に携わっていた経験を生かし、機能性食品分野を開拓。1998(平成10)年に一治に代わって代表取締役社長に就任した。

人生を振り返るように新年会では「がまん坂」を熱唱

未来に受け継がれていく、創業者・筬島一治の想い

 長男・克裕の社長就任により、一治は70歳で代表取締役会長となった。年齢を考えればサポート役に回っても良さそうだが、克裕の経営に何かと口をはさみ、存在感は全く色褪せなかった。それでも80歳を過ぎると、自宅のある福山から電話で指示を発することが多くなる。その指示は2017(平成29)年11月に一治が享年90歳で永眠する直前まで終生続いた。「魚体液化の研究」と同様に、会社の経営も生涯をかけて一途に向き合い続けた。
 現在、仙味エキスグループは売上高47億円(2022年3月)、従業員数201名(2022年4月現在、パート社員含む)を誇る。工場数、グループ会社、商品ラインナップも含め、創業当時からは何もかも様変わりしているように見えるが、創業者・筬島一治の想いはしっかり受け継がれている。経営理念の一つである「食を通じて、安全で美味しく健康に役立つ商品づくりで社会に貢献します」には、一治が終戦直後に誓った「国民を飢餓から救いたい」という想いや、化学調味料全盛の時代に感じた「必ず天然調味料の時代が来る」という信念が込められている。事業領域として掲げる「食に関わるすべての分野で、独自技術を駆使して新しい価値を提供する」には、一治の研究にこだわり、新しい価値を創造する姿勢が表れている。
 この筬島一治の想いはこれからも一途に、強い信念を持って、仙味エキス株式会社と従業員たちを支え続けていくことだろう。

参考文献:天然調味料の先駆者 筬島一治評伝

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